【真実を発信163】東北・三陸地方の被災地視察(1)

地震・津波議連による東北・三陸地方の被災地視察に参加したので、その内容を回数を分けて報告します。

今回の視察は、復興の協力を行うことを目的に視察研修を行う企業、団体、グループ等を対象に地元の三陸鉄道が実施している「被災地フロントライン研修」を利用、12~14日の日程で行いました。

この研修は、三陸鉄道の社員の方がガイドを務められ、報道等では決して伝えられることがない、現在の被災地の様子を知るという点で、ひじょうに有意義なものと思いました。報告に先立ち、被災地の現状を詳細に知ることができたことを、この場を借りて、三陸鉄道の関係者の皆様にお礼を申し上げます。

今回のコースは、初日が普代村(普代水門、大田名部防潮堤)、田野畑村(島越駅復旧工事)、宮古市田老地区(たろちゃんハウス、田老防潮堤)、2日目が山田町、大槌町、釜石市(いずれも被災・復興状況)、遠野市(後方支援について)、3日目が陸前高田市、大船渡市、気仙沼市(いずれも被災・復興状況)で、三陸地方を南下する格好で行いました。

まず、普代村と田老地区の2か所を視察して、公共事業のあり方を考えさせられました。

普代村にある普代水門、大田名部防潮堤は、東日本大震災で発生した巨大津波から住民を救った数少ない例として知られています。いずれも高さが15.5mあり、建設された当時、「こんな高さは要らない」との批判があったものの、当時の和村幸得村長が自らの体験から15m必要と譲らず、建設を強行した経緯がありました。

結果は、東日本大震災で他の地域の防潮堤がほとんど機能しなかった中で、傍聴施設に守られた普代村は死者ゼロ、行方不明者1名(様子を見に行った)とほとんどの村民を救ったのです。傍聴施設外にあった漁業施設こそ壊滅したものの、1896年に起きた明治三陸地震の際の津波で、1010名の死者を出した点を踏まえると、これは特筆すべき事実と言えるでしょう。

一方、田老地区の防潮堤は高さが10m、総延長が2.5㎞。その容姿から「万里の長城」と呼ばれたこの防潮堤を擁した旧田老町は、町全体で防災に取り組んでいました。世界最強の防潮堤と言われていたのですが、津波はそれを乗り越え、多くの犠牲者を出したのです。

津波の規模や地形的な違いなど、一概に言えないながら、15.5mと10mの高さの差が、被害の差に関係した可能性があると考えることもできます。普代村の場合、これらが建設された際、反発があったことは先に記した通り。先に、国でスーパー堤防が議論された時に”無駄な事業”との批判も聞こえましたけど、命の重さを考えると、巨額な予算がかかろうとも、決して無駄とは言えないでしょう。

また、田老地区については、文字通り“想定外”の津波で被害が大きくなった・・・ということなのでしょうけど、今後の復興事業においては、今回の経験を踏まえ、防潮施設をどう建設するかを十分過ぎるくらい議論した上で事業を進める必要があると感じました。

これだけの被害がありながら、また、救われた例がありながら、沿岸部では新たな防潮施設を建設する際、極度に高い施設は要らない・・・そんな声も出ているそうです。聞けば、沿岸部住民で多いのは漁業関係者。彼らは、時化の様子を探るのをはじめ、生活手段として海が見えないと困るというのです。高台に移転を考える住民が多い中、そうした点から海辺近くに残る住民が漁業関係者を中心に少なくありません。

外野からすると、これだけ酷い状態になったのだから、今度、建設する防潮施設はより高く・・・と思うのですけど、地元の声は必ずしもそうではないのです。よく言われる、「とにかく逃げる」という津波対策も合わせて、考える必要があるでしょう。

田野畑村では、強固で津波に耐えうると思われていた、島越駅(しまのこし、震災前まで美しい駅舎が観光スポットになっていた)周辺の高架橋部分が流されてしまいました。その周辺の被災状況は、約100軒あった民家が高台の2軒を除き無くなったほど。ここでは、防潮堤を建設した上で、その内側にある三陸鉄道の高架を第2の防潮堤に位置づけ、駅を中心とした復興を進めようとしています。

これら復興事業が進められる中、現地で聞かれるのが、高台移転、かさ上げ造成・・・これらについて、住民の間で意見が分かれている点などについて、次回のブログで記します。