前回のブログでは、入口は「選挙」、出口は「政策」と書いたが、今回はその続編。“出口は見付かったのだが、出るに出られない”・・今の政治では、こんなケースもあるようだ。
「政策」が政党の分裂、分党、或いは議員個人の離党に繋がるのは自然の流れながらも、「政策が違っても離れない理由があるじゃないか」といった指摘が出ても不思議ではない状況にある。またまた、他党のことを記すことになるが、たとえば、民主党はどうであろうか。それこそ、右から左までごった煮状態・・改めて、1つ1つの立場の違いを書くことはしないものの、何のために一緒にいるのかわからなくなる時がある。
なぜ、”出るに出られない”のだろうか。考えられる理由は1つ。これも入口と同じ「選挙」なのだ。民主党の場合、最大の支持基盤は言うまでもなく連合。この労働組合が、選挙の時に威力を発揮するのは容易に想像がつく。私は、自分の選挙は、友人や知人、ボランティアの手弁当によって支えられ、また、支持者もいわゆる“組織票”という類ではなく、考えに共感して下さる方なので、組織票に頼る選挙がどういうものなのか感覚的にはわからない。
ただ、自分以外の選挙で、見聞きした話などから記すと、なるほど、一度でも組織票による選挙を体験し、それで当選しようものなら、そこから離れられなくなるくらいはわかる。実際、一昨年の総選挙で民主党からの離党組の多くが、どういう末路を辿ったを思い出せば、ひじょうにわかりやすい。「あの候補は強い」と言われながら大きく票を減らしたケースもある。もちろん、逆風の環境を考える必要はあるものの、それ以上に票を減らした事実は、労組という組織票が離れたことが要因であることは論を待たないだろう。
そうした例をみれば、「選挙」のことを考えると、分裂、分党した場合、自分が付いた側に労組の支持を得られなければ、自分も票が激減することを覚悟しなければならない。「政策」という「出口」を見付けたとしても、「選挙」を考えて出るのを我慢する議員は大半となれば、分裂するとは考えにくい。
他方、与党についても似たようなことが言える。集団的自衛権で考え方が異なりながらも、自公連立政権は今の時点では変化がみられない。やはり、ここでも連立解消を防ぐ担保になっているのが「選挙」だ。自民党にしてみれば、確実な組織票として期待できる公明党の支持母体である創価学会から進んで離れるという行動は取りにくい。「選挙」で協力する側の公明党にとっては、所属議員のは厚い支持基盤に支えられ安泰としても、現状の得票から単独で与党となるのは不可能であり、自民党から離れにくいと思っても不自然ではないだろう。
では、なぜ、みんなの党の大量離党劇、維新の会の分裂・分党は、あっさり「政策」で起きたのか?・・答えは簡単。いずれも、有力な支持母体はなく、”組織票”に頼る選挙を行っていないからである。ゆえに、「政策」という「出口」が見えたら、迷うことなくあっさり退場・・となるのだろう。
蛇足的に書くと、有力な支持基盤がなく選挙を戦う際には、強固な”組織票”に対抗するには、より優れたメニューを提示しなければならないので、出来上がる公約は立派なものになる。有権者はそこに期待して投じるため、”裏切られた”という気分になるのは当然のこと。だから、「入口」が「選挙」であると、政治不信が高まるのだ。私の立場から言えば、「選挙」のため・・有力な支持母体がない場合、この”将来的な裏切り”が強い誘惑となる。しがらみなく、かつ「政策」を「入口」にする・・これがあるべき姿なのだが、相当な困難が付きまとうが、自分の理想がそこにあるため、頑張り抜くしかない。
話を元に戻すと、強固な支持母体がある場合、それを捨て去り「出口」から出てしまうのは、よほど個人の実力で選挙が強い政治家に限られるだろう。本当に選挙に強い、或いは抜群の知名度と実績を備える政治家は、支持基盤があろうがなかろうが関係なく信念を貫くことができる。「選挙」に勝ちやすいところを渡り歩く支持基盤がない政治家とは異なり、組織票に支えられたことがあるたいていの政治家は”出るに出られない”というのが実情ではないか。
そう考えると、現状では大きな政界再編は夢のまた夢・・。野党に限って言えば、“しがらみ”がある政治家が多いだけに、私は一部の方が描くシナリオ通りに物事が進むとは思っていない。ゆえに、将来はわからないながら、少なくとも現時点で、自らの考えを実現する手段としては、政策ごとに対応するのが現実的であり、所属するみんなの党のスタンスは、所帯の規模から言っても適切だと思うのである。
もっとも、再編の可能性がゼロかと言えば、そうとも言えないだろう。本当に強い政治家は関係なく信念を貫くことができると記したが、連立のパートナーは「選挙」においては確実に規模に見合った票を取る”強さ”がある・・そうであるがゆえに、「一寸先は闇」と言われる状況になることを警戒するに越したことはない。