※ハフィントンポストに以下のコラムが掲載されました。
米国大統領選挙は、大方の予想に反してトランプ氏が当選した。選挙人の数だけみれば、圧勝と言えるものの、投票数を見るとその表現は正しくない。クリントン氏の方が多かったという意味ではなく、得票差数が僅か20万票と稀に見る大接戦だったからだ。巷間、言われるように、文字通り国を二分する選挙だったのである。
「国を二分した」にはいろいろな”二分”があるだろう。変革か現状維持か、自由貿易か保護主義か、不法移民に寛容か排斥か──等々だが、私は”階層”の対立がこの結果を生んだのではないかと思っている。
報道では、トランプ氏の勝因で貧しい白人労働者層を取り込んだ、というのが目立つ。これらは、かつて米国では中間層だったとみることができる。真面目に働けば、将来はきっと良くなると思っていたところ、暮らし向きがよくなるどころか、貧しくなる一方。そこで、トランプ氏は良い候補とは思えないながらも、「何か変えてくれそう」との期待感から一票投じたとされる。
米国人の知人に話を聞くと、中間層の暮らしは、稼いでも税金やら保険やら給料から半分近く引かれ、病気になると高額な医療費を払わねばならないという。一方で、低所得者は手厚い保護を受け、一部の富裕層は優遇されている。「どこかおかしい」──今回の選挙では、初めて投票に行った人の割合が、過去の大統領選挙に比べて多かったと分析もあるが、そうした今まで黙っていた、我慢していた層が、抗議の意味を込めてトランプ氏に投じたというのだ。
そして、それらの層が従来は”サイレントマジョリティ”だったために、今回はこぞって投票に出向いたことで、番狂わせに繋がったのかもしれない。構図としては、「優遇されている層(低所得者層+富裕層、クリントン氏)」VS「我慢している層(中間層、トランプ氏)」だったのではないだろうか。
選挙戦の構図がこれだったとすれば、よく言われるポピュリズムの勝利との表現は、必ずしも適切ではないと思えてくる。過激な言動で有権者の関心を引き付けることは、選挙手法としてはポピュリズムの権化と言っても差し支えないだろうが、実際は、我慢していた現状を変えたいと目覚めるきっかけを与えたとみることができるのだ。優遇されている反対側から見れば、扇動するポピュリズムであっても、実を言えば、それは”黙らせたまま”にするための都合の良い言葉なのかもしれない。
さて、この構図だが、どこかの国も似たような状況と言えそうだ。米国ほどではないにせよ、日本も低所得者層と高所得者層が優遇され、一般的なサラリーマンなど中間層が損をしている現状があると思っている。所得での区分けが適切でなければ、既得権を持っている人、持っていない人、と分けることができるだろうか。
私は、自分のこれまでの政治活動において、真面目に働いてもなかなか報われない、大多数のサラリーマンの負担を軽するため、既得権を打破することを目指してきた。「都市住民に予算を取り戻そう!」、「サラリーマンの負担を軽くしよう!」──こう訴えてきた活動を通じ、不満のマグマがフツフツと沸いているように感じていた。
トランプ旋風とまでいかないながらも、ここにくるまで、マグマが噴出しかけた場面が何度かあったと思う。第三極のブーム、昨年に行われた大阪都構想の住民投票などがそれだ。
これらは、実を結ぶまでには至らなかったものの、その火が完全に消えた訳ではない。我慢している人、黙っている人は、きっかけを待っているだけなのだ。そう、米国でトランプ氏が現われたように、大衆を引き付けるカリスマやトリックスターの登場を──いつかはわからないし、起きないかもしれないが、日本でもトランプ旋風のような突風が吹く可能性が十分あると思っている。
もっと見る:
政治, ドナルド・トランプ, アメリカ大統領選, ヒラリー・クリントン