長崎視察、軍艦島に上陸して思ったこと

昨日、本日と長崎県へ視察に行きました。今回は通常の業務とは異なり、歴史探訪クラブの視察。議員が毎月会費を積み立て、自費で回る視察です。

歴史を探るという趣旨で、今回、訪れましたのは長崎でした。言うまでもなく、終戦直前に原爆が投下された街・・・江戸時代は出島を通じて鎖国下で、オランダとの窓口となっていた国際都市だったほか、明治以降は三菱財閥の下で工業都市と発展するなど、歴史を学ぶ上で見どころ満載の都市と言っていいでしょう。

コースは、出島→軍艦島→大浦天主堂→グラバー園→平和公園→原爆資料館。このうち、軍艦島は日本の産業史を学べるとともに、コンクリートの劣化を感じ取って、古い団地の老朽化の参考になるなど、貴重な体験をすることができたと思っています。

軍艦島は全景の写真を見てもおわかりのように、その姿が軍艦のように形をしていることから呼ばれる通称。正式には端島と言います。海底に眠る石炭を掘り出す基地となっていました。

江戸時代から採掘が始まり、明治期から三菱財閥の下で、年間平均40万トンの石炭が採掘されました。最盛期の1950年代には南北480m、東西160mの小島に5000名以上も住んでいたそうです。しかし、わが国のエネルギーの中心が石炭から石油にシフトしたことで閉山。それとともに無人島となり、以来、38年経過します。

その後は、自然劣化で建物が崩れるなど完全に廃墟となり、一般には上陸が禁止されていましたが、3年前から再び上陸できるようになりました。

30号棟は大正時代、日本で最古のコンクリート住宅棟で、コンクリートの劣化状態を調査研究する上で貴重な“生きた資料”とみることができます。むき出しのコンクリート建造物──海に面しているため、潮風の影響も大きいながら、三十数年経過すると、ここまでボロボロになるものか──老朽化した住宅の建て替えは、安全なうちに急ぎ行わなければならないと思いました。

産業史としては、終戦前までは命がけのハードな仕事を12時間労働で行っていたそうで、ある意味、人命が軽視されていたように思える点は、明治以降の日本が経済発展を遂げた過程における、産業史の暗い部分と言えるかもしれません。戦後は、1日8時間労働に改められましたが、戦前は過酷な労働によって日本が支えられたことを忘れてはならないでしょう。

軍艦島、2009年1月5日に世界遺産暫定リストの掲載された「九州・山口の近代化産業遺産群」の構成資産の1つとなっています。

私は長崎を訪れたのは初めてで、原爆資料館で平和の尊さを感じた次第。観光が主目的ながら、ひじょうに有意義な視察だったと思っています。