稲村の火の館について書くと、津波について学べる施設で2007年にオープン。初年度は年間で3万人の人が訪れたそうですが、以後は年を追うごとに減少・・・ところが、昨年の東日本大震災の後は関心が高まり、昨年は4万人を超す人が訪れたそうです。
昨日、写真を掲載した「濱口梧陵記念館」と「津波防災教育センター」から鳴り、地元にとって偉人である濱口梧陵の精神を受け継ぎ、来たるべき津波被害から身を守る場となっています。
建設用地は、梧陵が当主となっていたヤマサ醤油が寄贈。同社は、千葉県では銚子市に工場があることで有名ですが、江戸時代に銚子とこの地の結びつきは強かったのです。
ちなみに、黒潮の流れに乗れば、和歌山の紀伊半島から千葉の房総半島まで一直線・・・白浜や勝浦など両県には、同じ地名が存在します。ヤマサ醤油の技術も、広村から銚子に伝えられたとか。梧陵は12歳の時に、銚子にある濱口本家の養子となりました。
一方、前回記した堤防の件に少し付け加えると、失業対策でもあった堤防の建設事業は、生活の糧ができたことにより、村民の離散を防ぐ結果となりました。物語にある人命救助もそうですが、政策的な観点からは、その後の復興に向けての精神を学びたいところです。
堤防工事では、労賃を日払いにしたそうです。単に、慈善でお金を配るだけでは、人々は“依存”してしまうようになるでしょう。梧陵は、そうすることはせず、村民の自立を目指したのでした。
堤防のそばに立っている広川町立耐久中学校は、もともとは嘉永年間に濱口梧陵が創設した耐久社という私塾でした。「自学自労」を教育方針として、人材育成にも努めたのです。旧制中学を経て、新制耐久高等学校として現在に至りますが、同校は移転、新制の耐久中学が、校地とともに名称を受け継ぎました。
2日目に訪れたのは和歌山県庁、同県議会を視察しました。視察というより、勉強会といった方が適切かもしれません。和歌山県が津波対策をどう取り組んでいるのか、知事、県議会津波議連、県当局者から現状を聞きました。
津波対策と言えば、堤防などインフラの整備だけではなく、住民をどう避難させるか・・・となりますが、和歌山県は観光客が多く訪れるため、訓練など受けていない、どう観光客を誘導するかが重要。その点を踏まえ、対策を練っています。この点は、房総半島に多く観光客が訪れる千葉県と共通の課題になるでしょう。
また、震源となる南海トラフに近く、最南端の串本町では、地震からわずか6分で津波が到達すると想定されています。津波から「逃げ切る!」支援対策プログラムと銘打ち、8市町33地区について、ソフト・ハード事業を組み合わせ、津波が原因の死者をゼロにする目標で取組を続けています。
避難場所の見直しを急ぐとともに、都道府県としては全国初となるモバイルを利用してエリアメール、緊急速報メールの一斉配信を、被災の恐れのある地域に行うようにしました。
さらに、県議会では、東日本大震災前の平成20年に「和歌山県防災対策推進条例」を施行したほか、震災以降、「東南海・南海地震等対策特別委員会」の設置、「東海・東南海・南海地震による超広域災害への備えを強力に進める9県議会議長会」の設立、「紀伊半島三県議会交流会議」(和歌山、三重、奈良)による災害対策の要望・・・などに取り組みました。
勉強会には、仁坂知事も出席。その後は、県会議本会議場を見学しました。本会議場は1938年(昭和13年)から74年使われ、歴史の重みを感じさせます。