野田佳彦氏が、新しい日本の総理大臣に就任した。民主党が政権与党であることに何ら変わらないことから、今回の首相交代に関して「政権交代」と言われていないものの、思惑視されている大連立に進むか否かも含め、今後の展開、或いは政策次第では実質的な「政権交代」となるかもしれない。
議会制民主主義において「政権交代」は、通常は選挙を通じ与党となる政党が文字通り交代することを指す。一昨年の9月に行われた総選挙で麻生政権から鳩山政権の移行は典型的なケース。同じく自民党が下野した93年の総選挙の際、同党は比較第1党の座にあったために、鳩山政権の誕生は自民党が結党してから半世紀以上の時を経て初めて本格的な「政権交代」が起きたと迎え入れられたのである。
しかし、本当の意味で半世紀以上も政権は交代しなかったのであろうか。表面上は自民党の首班が長く続いたことで、その間、何も変わらなかったとみることも可能だ。ところが、自民党首班が復活した橋本政権以降の政策の流れをみると、政策の骨格となる部分が変わっていたポイントがいくつかあったことに気が付く。それは「大きな政府」「小さな政府」の違いだ。
橋本政権は行政改革を声高に訴え「小さな政府」を指向。後を継いだ小渕政権は景気悪化に伴い積極財政を進め「大きな政府」を目指した。森政権で方向性は変わらなかったが、熱狂的に支持された小泉政権が「小さな政府」だったのは異論を挟む余地はないだろう。蛇足的ながら森政権後に小泉氏と首班の座を争ったのが橋本元首相だった点は興味深い。
その後、安倍、福田、麻生の3政権では、「大きな政府」へ徐々に舵が取られる格好となったが、決定的に変化したのは民主党への政権交代、鳩山政権の誕生だ。つまり、同じ自民党政権が続きながらも、09年の総選挙までは「大きな政府」と「小さな政府」という政策の骨格が変わったのである。ちなみに、政策の基本路線が大きく変わった様子が感じられなかった鳩山政権から菅政権への移行は“たらい回し”に過ぎない。
このような変遷、方向性が民主党は「大きな政府」、共和党は「小さな政府」と明らかに異なる米国では考えにくい。両党の間で政権が交代した時に初めて政策の骨格が変わるため。その意味から日本の場合、選挙を経ずに首班と政策の両方が変わる事象を「擬似政権交代」という。指向すべきものが変わりながら、表面的には同一の政権が続いたようにみえるからだ。
ゆえに、野田政権の誕生は、鳩山政権から菅政権へと続いた「大きな政府」の流れに変化が訪れる、本質的な意味での「政権交代」となりそうな状況だ。選挙という洗礼を浴びることなく、擬似的に政権交代をさせようとしている──かつての自民党が行ってきたことを、今、民主党も同じ道を歩むかもしれない。
野田政権がいきなり「大きな政府」から「小さな政府」への転換を図らないまでも、その「移行期」となるのなら、小泉政権以降の3代続いた自民党政権末期をなぞっているようにも感じる。その場合、自民党が「小さな政府」を掲げて、次の総選挙を戦うのであれば、歴史が繰り返されることになるのだろうか──。
いずれにしても、野田新首相が先行き、一昨年の総選挙で掲げた「大きな政府」の指向と感じさせるマニフェストをそのまま遂行すれば、「擬似政権交代」とはならず、表紙が変わる“たらい回し”に止まろう。その場合、批判は免れないながらも、過去2年間行ってきたことと整合性がある。だが、マニフェストを撤回するのであれば、それは擬似政権交代にほかならない。別のことをしようとするのだから、国民の信を問うのが筋だ。
「擬似政権交代」が起きるのは、それを許してしまう土壌が自民党や民主党にあるためではないか。同床異夢と言えば聞こえがいいが、両党とも目指すところが異なる政治家の寄せ集めとなっている。政治は数──という理論ではなく、政策本位で政界を再編し、その上で国民の信を問うことが政治の健全化につながるのではないか。
(水野 文也記す)